モラトリアムなトマトのブログ

発達障害について何かを書きたいときに書きます。

発達障害は治せる?治せない?

発達障害は、治せるか否か。

個人的に自分は、発達障害を一次的に治せる人、発達障害を治せない人がいると考えています。現時点で、完全に治せるとは思いません。

何故なら、発達障害は人によって個人差が激しく、とても治せるとは言い難い人もいますし、また、発達障害だと診断されてから投薬やライフハックなどで「治せた」と錯覚するぐらい良くなる人もいると思います。

 

また、発達障害は、ADHDASD、LDの3種類に分かれています。

さらに、個人によって特性が全く違います。

 

仮に、不注意優勢のADHDだけの人が「ADHDが治った!」と言い、治し方を公開したとしましょう。それは、不注意優勢のADHDにだけ効果がある治し方だと考えられます。少なくとも多動優勢に効果が薄く、別の治し方やライフハックを模索するでしょう。

果たして、自分の特性だけが治っただけで「ADHDが治った」もしくは「発達障害が治った」と言えるでしょうか?

主語が大きいように思われます。

発達障害の治し方に関しては、その人個人の発達障害の詳細とWAIS-Ⅲの数値など公開のうえ、こう治しましたと記すのが理想だと私は考えています。

WAIS-Ⅲには、言語理解、作動記憶、知覚統合、処理速度の4つの項目があります。同じADHDでも、言語理解凸と知覚統合凸では、全く特性が異なるように感じます。

だから、人によって症状や特性が全く異なるので、自分の治し方が相手に効果があると思い込むのは危険です。

 

また、これからどんどん発達障害に関する研究が進むにつれ、治せる人、治せない人となる可能性もあります。もし、本当に治せない人に対して、治せると言っていたら、怖いことだと感じませんか?

現時点でも、どんなに頑張っても、自分の意思ではどうにもできないぐらい重度な人もいるわけです。そういう人に「発達障害は治せる、発達障害を免罪符にするな!」と言えますか?

私には、ますます、追い打ちをかけているようにしか見えません。

当事者が、発達障害に悩み、苦しんでいる他の当事者に対して、「発達障害を言い訳にするな、免罪符にするな」と言ってはいけません。

また、生存バイアスと発達障害特有の認知の歪みで、自分の思考や治し方(ライフハック)を一般化しすぎてはいませんか?

生きづらさを抱えて生きている人たちが多いわけですから、もう少し他人の症状や状態を見ましょう。自分一人だけの経験で対処しきれない人たちがたくさんいます。

今の段階では、発達障害は治せるか、治せないか、イマイチはっきりしません。だから、治せる、治せないとどちらを断言することは新たな苦しみを生んでいるかもしれません。

例え、治せるものだとしても、その人自身が前向きに治していこうと思わない限りは、発達障害を免罪符にして生きてもいいと思います。その人自身の心が、免罪符にすることで軽くなるなら、それでいいではありませんか。なんで、病んでいる人の心をさらに苦しめるようなことを言うのか私には理解できません。それこそ、精神障害に対して理解がないとしか言いようがありません。

治せると信じて頑張っている人も否定しません。

 

私は、少なくとも脳がまだ発達してくれると信じて、改善しようとは考えていますが、なかなか改善できないのでイライラしています。治る人は、過剰診断で発達障害と診断されたうつ病なんじゃないかと思ったりします。

なかなか思い通りに動いてくれない体に毎日腹立ちながら、治せると信じて生きる日々にも疲れてきています。正直、「治せない」と断定して、そのうえで自分らしく生きる方が楽だと思いつつあります。

治ると信じて、頑張ってみてもなかなか治らない日々が続けば、治らないと言いたくもなります。

 

発達障害を免罪符にする人を責めないであげてください。

もしかしたら、様々な努力や対策を講じたうえでの結論かもしれません。

ADHDは本当に「誰にでもあること」なのか?

ADHDの悩みに対して、

健常者は

「そんなこと誰にでもあるよ」「気にしすぎだよ」

と励ますつもりで言います。

 

果たして、本当に誰にでもあることなのでしょうか?

 

ADHDは、毎日学校や会社に遅刻します。

また、ゼロ百思考で遅刻するぐらいなら休んでしまおうと考えてしまいます。

 

ADHDは、脳機能の問題で集中しようとしても全く集中できません。

よくあることではなく、常にあることなんです。

 

誰にでも、苦手なところがあるとしても、脳機能が健常者に比べて正常に働かないことで生じる行動や言動は、果たして個性の範囲なんでしょうか?

「よくあること」だと言いますが、あなたにとって、ADHDの症状は毎日ありますか?

 

 

 

今一度、しっかりと考えてほしいです。

 

 

当事者同士なら分かり合えるというのは幻想

よく、Twitterの発達界隈でよく見かける「同じハッタツさんなら分かり合える!」という主張があります。

その主張から転じて、「ハッタツ同士なら何かできるかも」という考えを抱く方も見られます。そして、その考えに憑りつかれた方からは定型発達をやたらと下げる発言が出るようなこともあります。

しかし、長らく発達障害の当事者として実際に活動していた人のツイートを見れば、当事者だけの当事者会は続かない現実があるという趣旨の内容を呟かれていました。

 

発達障害の認知度がここ数年上がり、診断される人が増えたことから、Twitterの発達界隈はどんどん大きくなっているようです。当事者が認知度を上げようと活動したり、当事者のためのカフェやバーができたり、現実も色々動き始めています。

その影響で、発達界隈は、発達障害のために何かしよう」という流れがとても強いように感じています。

発達障害のために何かできない、自分のことで精いっぱいな人を置いてけぼりにしたまま、界隈が成長しているようにも私は個人的に思えるのです。

発達障害の認知度はとても低いため、まずは知名度を上げたり、当事者の居場所を増やしたりすることは、とても重要なことだと考えています。少なからず、今の社会を変えるために動くことは大事なことだと認識していますし、うだうだと発達障害に悩んでいるだけでは何も変わらないことは十分理解しています。

 

だからこそ、発達障害のために何かしようということを是として、界隈全体の流れにすることは、とても危険なことだと感じています。

このまま、発達障害のための活動がどんどん盛んになったとしても、発達障害のためにならないのではないかと、考えています。

何故なら、発達障害の症例は人それぞれであるからです。それを踏まえて活動しているのか、時々不安になります。

仮に当事者代表となる人物がいても、その当事者代表の症例が全ての発達障害者に当てはまるとは限りません。

 

また、具体的な名指し批判を避けますが、発達障害知名度を上げるための活動が、ますます発達障害の理解を遠ざけているような気がしてなりません。

体力がないことや人よりなぜか疲れやすいことを悩む当事者は少なからず存在していて、医者からも発達障害者が疲れやすく、体力がないという事実を認められにくい現状があります。

果たして、当事者が元気に活動しているのを見て、健常者側は発達障害の困り感を理解してくれるのだろうか?

 

「なんだ、やっぱりふつうじゃん」

 

と受け取られやしないか、心配でたまりません。

目に見えない障害という点を忘れてはいけません。

ふつうのことをふつうにすれば、健常者と何も変わらないわけです。

それで、発達障害知名度を上げたとしても、その先で理解される未来は待っているのでしょうか。

 

 

だいぶ、話題が逸れてしまいましたが、「ハッタツ同士なら分かり合える」という内容に戻りましょう。

 

最初は、私自身も他の発達障害当事者のツイートを見て、すごく共感を覚えて、自分だけではなかったと、随分と楽になりました。

それから、発達界隈にどっぷりと浸っているわけですが、いつ頃からか無意識のうちに「ハッタツ同士なら分かり合える」ような考えに憑りつかれました。

しかし、とあるバーに行ったことでその考えは崩れてしまいました。

同じ発達障害ならば話しかけられるんじゃないか、と淡い期待で来店しましたが、実際そんなことはなかったです。人に話しかけられないと店でうじうじと泣いてしまい、それで人から話しかけられることもなかったため、発達障害も定型発達も、人間関係においては何も変わらない」ことに気付きました。むしろ、人がうじうじと泣いていても話しかけんのか~い、気を使って話しかけてくれる定型は神じゃね?と自分勝手な感想を抱き、同じ当事者でも辛さや寂しさを察してくれるとは限らないと学びました。

当事者の集まりで他の当事者と話せなかった経験がある人は少なくないようです。

 

結局、「ハッタツ同士なら分かり合える」ことは幻想でしかなかったのです。発達障害という共通点があるだけで、当事者も所詮人間なのです。合う合わないは、発達か定型か関係なく存在するわけです。

実際に他の当事者に会って、発達障害故の視野の狭さにイライラすることもあるわけです。人の振り見て我が振り直せ、ではありませんが、だから発達障害なんだと納得することもあるかもしれません。

当事者同士が無条件に分かり合えるということはありえません。

コツコツと人間関係を築いていかなければならないのは、障害関係ありません。

 

発達障害を言い訳にすること

Twitterの発達界隈でこの記事が波紋を呼んでいます。

 

 

僕たちは発達障害を言い訳にしてはいけない(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース

 

議論を呼んだのは「発達障害を言い訳にしてはいけない」という断定口調の記事タイトルです。

記事内容を読めば、決して断定しているのではないというのは分かりますが、しかし、やはり発達障害を言い訳にしてはいけないことを肯定するような流れは見られます。

私も最初は、「発達障害を言い訳にしてはいけない」ことに賛成していました。しかし、発達障害を言い訳にして生きたい、という主張を見て、考え直します。

 

そもそも、私は「自分がこれまで生きづらかったのは発達障害のせいだ」発達障害を言い訳にして、生きることを選択していました。

 

何故なら、些細な人間関係の躓きから始まった不登校、そのせいで中学校も通えず、通信制高校すらも一時期は不登校、浪人を選択したのにも関わらず、ゲーム三昧の日々、志望校合格に向けて勉強する気になれば、時すでに遅しで二浪から三浪に突入しかけていて、やはり中学不登校が原因による学力不足で三浪が決まり、「ふつうの生き方とは、なんだっけ?」とふつうとはズレまくった人生を現在進行形で送り続けています。

 

発達障害のせいにするまでは、ふつうの人生に戻りたくて仕方がなかったですし、ふつうの人生から外れてしまったことに絶望して常に死にたいと考えていましたし、とにかく自己肯定感が低く、前向きなことを言っても実行することが難しく、くよくよしていました。

 

浪人生なのに長時間勉強ができないのも、勉強時間ゼロの日があるのも、「発達障害のせい」にして言い訳するのは、自分の心を守るためです。

 

そうでもしないと、また自分を責め、落ち込んでしまい、だいぶ薄れている希死念慮が再び強くなり、勉強ができない状態になるのは火を見るよりも明らかなのです。

 

もう、うつ病、自己肯定感を下げて、勉強ができなくなるのは正直イヤなんです。ようやく、自分の夢を叶えるために頑張ろうとしている気持ちを消したくありません。

 

 

少々、前置きが長くなりましたが、自分の状態を上記の記事の様々な当事者の意見を通しながら、冷静に見つめ直し、「発達障害を言い訳にする」ということに対して、考えました。

 

そもそも、発達障害を言い訳にすることはどういうことでしょうか?

 

例えば、何かをメモしたスケジュール帳を失くすこと、人の話を記憶に留めておけないこと、うっかりコップをこぼしてしまうこと、人が話している最中に口を開いてしまうこと、ADHDの主な症状のすべては自分のせいなのでしょうか?

 

いいえ、違います。

 

全部、発達障害のせいなのです。

 

脳内の伝達物質が不足していたり、前頭葉が弱かったり、とにかく脳が健常者に比べて、ボロボロなのです。

そもそも、人間の行動は全て脳が司っているといっても過言ではなく、その脳が健常者に比べて発達していないのだから、どんなに努力しても、できないことがあって当然だと私は個人的に思っています。

疑問に思う方は、一度、脳の役割について、調べてみてください。

 

だから、どんなに努力しても、スケジュール帳を失くしてしまう、人の話を覚えていられない、コップをこぼしてしまう、話しを遮ってしまう、治そうとしても治せないのは当たり前のことです。

しかし、理解が得られないために、周りから「怠け者」「甘えてる」と評価され、周囲と自分を比較してできない自分をとにかく下げてしまい、「怠け者」だと思い込み、「甘えてる」から頑張ろうとして、そして二次障害を患ってしまう人がたくさんいます。

 

私も長い間、二次障害に苦しみました。「怠け者」の自分が嫌いでたまらない、どこか「甘えている」自分が嫌いでたまらない、そんな自分はいらないから死にたい、とずっと考えていました。

 

でも、脳の役割を認識したうえで、発達障害がなんたるかを理解してしまえば、あれもこれも「発達障害のせい」だったのです。

 

果たして、言い訳でしょうか?

 

脳が発達していないことによる行動や言動を、本人の責任にしていいのでしょうか。

いいえ、違います。

本来ならば、本人の責任してはいけないのです。

 

しかし、残念なことに社会はそう考えてくれません。

発達障害の人が、脳の未発達からできないアレコレを努力が足りないだけと見なします。そして、「怠け者」「甘え者」「出来損ない」とレッテルを貼ります。

社会は障害者に歩み寄ることもなく、むしろ障害者が健常者に合わせてこいと、無言の主張をしているように思えます。

 

できないことはできないんです。

 

健常者の方も、できないことはできません。

 

発達障害は、できないことが人より多いのです。

 

例えば、私は受験生ですが、健常者ならば受験勉強のことだけを考えて悩みますが、私は受験勉強だけではなく発達障害を原因とする怠け癖や体力不足、集中力のなさと悩まなければなりません。

 

定型発達よりも、悩むことが多いのです。

 

それが、きっと生きづらさに繋がっているのではないでしょうか。

 

 

記事本文に反論したいことがあります。

 

定型発達も生きづらいと、最後の方に書かれていますが、そもそも誰だって生きづらい世の中です。

 

本来、生きづらさの比較なんて、してはいけません。

 

「誰だって辛い、誰だって大変。自分だけとは思うな」

 

とは、人が「辛い」と吐いた時に言われる定番の台詞ですね。

 

世界は、自分を通してしか見ることができません。

自分だけだと思い込むのは、当たり前のことではありませんか。

他人になることはなく、自分中心で生きているのです。

 

全く人の気持ちに寄り添っている言葉ではありません。

 

人が「辛い」と吐いた時は、ひたすら「辛かったね」「頑張ったね」「大変だったね」と優しく寄り添って言えばいいんです。

 

人の生きづらさの告白に、他人を持ち出すなんてことはしてはいけません。

 

残念ながら、上記の記事は定型発達よりの考えだなと感想を最終的に抱きました。

 

私は、なるべく社会に受け入れてもらえるよう「ふつう」になる努力や改善はするつもりですし、受験勉強は自分を少しでも生きやすくするための手段の一つです。

でも、できないことはしませんし、諦めていくつもりでもあります。

 

そもそも、社会が受け入れる努力をしていないどころか、私が生まれる一年前までは優生保護法のもと、障害者を積極的に排除してきたのです。

発達障害も最近になって、やっと認知されてきたとはいえ、完全に浸透しているかといえば、ノーです。私も自分は発達障害だと知るまでは、全く知りませんでした。

だから、発達障害を配慮しろ、というのは当然の要求ではありませんか。叫ばなければ、また排除されるのではないかという、無意識的な防衛意識ではないのでしょうか。

 

話はだいぶ逸れてしまいましたので、戻ります。

 

発達障害の言い訳にしたくないと、頑張ったところで、結局何もできない自分に対して絶望するだけです。

 

できないことをして、結局できなかったことを「ADHDだから」と開き直るのはよくありません。

たぶん、記事の本文の中で伝えたいことは、そういう言い訳ではないのかと思いました。

 

つまり、「できないこと」「できること」をはっきりさせればいいんです。

 

定型発達は「できないこと」を「できる」にします。

 

ですが、発達障害は「できないこと」は「できない」のです。

 

これが、定型発達と発達障害の差です。

 

発達障害を言い訳にして、生きてもいいじゃないですか。

 

私は、もうできない自分を責めて、自殺願望を抱き、二次障害で苦しみたくないのです。

 

できないのは私のせいじゃない、発達障害のせい。

だから、できないことはしない。

 

 

 

それでも、言い訳にすることはいけないことなんでしょうか…?

はてなブログでブログを書いてみることにした

アメーバブログFC2ブログ、忍者ブログと様々なブログでぼそぼそやってきましたが、アメーバブログ以外は長続きしなかったものです。

 

はてなブログがかなり利用されているなと思い、とりあえずはてなブログで色々書くことにしました。

 

発達障害のことを主に書いてみたいなと考えています。