当事者同士なら分かり合えるというのは幻想
よく、Twitterの発達界隈でよく見かける「同じハッタツさんなら分かり合える!」という主張があります。
その主張から転じて、「ハッタツ同士なら何かできるかも」という考えを抱く方も見られます。そして、その考えに憑りつかれた方からは定型発達をやたらと下げる発言が出るようなこともあります。
しかし、長らく発達障害の当事者として実際に活動していた人のツイートを見れば、当事者だけの当事者会は続かない現実があるという趣旨の内容を呟かれていました。
発達障害の認知度がここ数年上がり、診断される人が増えたことから、Twitterの発達界隈はどんどん大きくなっているようです。当事者が認知度を上げようと活動したり、当事者のためのカフェやバーができたり、現実も色々動き始めています。
その影響で、発達界隈は、「発達障害のために何かしよう」という流れがとても強いように感じています。
発達障害のために何かできない、自分のことで精いっぱいな人を置いてけぼりにしたまま、界隈が成長しているようにも私は個人的に思えるのです。
発達障害の認知度はとても低いため、まずは知名度を上げたり、当事者の居場所を増やしたりすることは、とても重要なことだと考えています。少なからず、今の社会を変えるために動くことは大事なことだと認識していますし、うだうだと発達障害に悩んでいるだけでは何も変わらないことは十分理解しています。
だからこそ、発達障害のために何かしようということを是として、界隈全体の流れにすることは、とても危険なことだと感じています。
このまま、発達障害のための活動がどんどん盛んになったとしても、発達障害のためにならないのではないかと、考えています。
何故なら、発達障害の症例は人それぞれであるからです。それを踏まえて活動しているのか、時々不安になります。
仮に当事者代表となる人物がいても、その当事者代表の症例が全ての発達障害者に当てはまるとは限りません。
また、具体的な名指し批判を避けますが、発達障害の知名度を上げるための活動が、ますます発達障害の理解を遠ざけているような気がしてなりません。
体力がないことや人よりなぜか疲れやすいことを悩む当事者は少なからず存在していて、医者からも発達障害者が疲れやすく、体力がないという事実を認められにくい現状があります。
果たして、当事者が元気に活動しているのを見て、健常者側は発達障害の困り感を理解してくれるのだろうか?
「なんだ、やっぱりふつうじゃん」
と受け取られやしないか、心配でたまりません。
目に見えない障害という点を忘れてはいけません。
ふつうのことをふつうにすれば、健常者と何も変わらないわけです。
それで、発達障害の知名度を上げたとしても、その先で理解される未来は待っているのでしょうか。
だいぶ、話題が逸れてしまいましたが、「ハッタツ同士なら分かり合える」という内容に戻りましょう。
最初は、私自身も他の発達障害当事者のツイートを見て、すごく共感を覚えて、自分だけではなかったと、随分と楽になりました。
それから、発達界隈にどっぷりと浸っているわけですが、いつ頃からか無意識のうちに「ハッタツ同士なら分かり合える」ような考えに憑りつかれました。
しかし、とあるバーに行ったことでその考えは崩れてしまいました。
同じ発達障害ならば話しかけられるんじゃないか、と淡い期待で来店しましたが、実際そんなことはなかったです。人に話しかけられないと店でうじうじと泣いてしまい、それで人から話しかけられることもなかったため、「発達障害も定型発達も、人間関係においては何も変わらない」ことに気付きました。むしろ、人がうじうじと泣いていても話しかけんのか~い、気を使って話しかけてくれる定型は神じゃね?と自分勝手な感想を抱き、同じ当事者でも辛さや寂しさを察してくれるとは限らないと学びました。
当事者の集まりで他の当事者と話せなかった経験がある人は少なくないようです。
結局、「ハッタツ同士なら分かり合える」ことは幻想でしかなかったのです。発達障害という共通点があるだけで、当事者も所詮人間なのです。合う合わないは、発達か定型か関係なく存在するわけです。
実際に他の当事者に会って、発達障害故の視野の狭さにイライラすることもあるわけです。人の振り見て我が振り直せ、ではありませんが、だから発達障害なんだと納得することもあるかもしれません。
当事者同士が無条件に分かり合えるということはありえません。
コツコツと人間関係を築いていかなければならないのは、障害関係ありません。