モラトリアムなトマトのブログ

発達障害について何かを書きたいときに書きます。

発達障害を言い訳にすること

Twitterの発達界隈でこの記事が波紋を呼んでいます。

 

 

僕たちは発達障害を言い訳にしてはいけない(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース

 

議論を呼んだのは「発達障害を言い訳にしてはいけない」という断定口調の記事タイトルです。

記事内容を読めば、決して断定しているのではないというのは分かりますが、しかし、やはり発達障害を言い訳にしてはいけないことを肯定するような流れは見られます。

私も最初は、「発達障害を言い訳にしてはいけない」ことに賛成していました。しかし、発達障害を言い訳にして生きたい、という主張を見て、考え直します。

 

そもそも、私は「自分がこれまで生きづらかったのは発達障害のせいだ」発達障害を言い訳にして、生きることを選択していました。

 

何故なら、些細な人間関係の躓きから始まった不登校、そのせいで中学校も通えず、通信制高校すらも一時期は不登校、浪人を選択したのにも関わらず、ゲーム三昧の日々、志望校合格に向けて勉強する気になれば、時すでに遅しで二浪から三浪に突入しかけていて、やはり中学不登校が原因による学力不足で三浪が決まり、「ふつうの生き方とは、なんだっけ?」とふつうとはズレまくった人生を現在進行形で送り続けています。

 

発達障害のせいにするまでは、ふつうの人生に戻りたくて仕方がなかったですし、ふつうの人生から外れてしまったことに絶望して常に死にたいと考えていましたし、とにかく自己肯定感が低く、前向きなことを言っても実行することが難しく、くよくよしていました。

 

浪人生なのに長時間勉強ができないのも、勉強時間ゼロの日があるのも、「発達障害のせい」にして言い訳するのは、自分の心を守るためです。

 

そうでもしないと、また自分を責め、落ち込んでしまい、だいぶ薄れている希死念慮が再び強くなり、勉強ができない状態になるのは火を見るよりも明らかなのです。

 

もう、うつ病、自己肯定感を下げて、勉強ができなくなるのは正直イヤなんです。ようやく、自分の夢を叶えるために頑張ろうとしている気持ちを消したくありません。

 

 

少々、前置きが長くなりましたが、自分の状態を上記の記事の様々な当事者の意見を通しながら、冷静に見つめ直し、「発達障害を言い訳にする」ということに対して、考えました。

 

そもそも、発達障害を言い訳にすることはどういうことでしょうか?

 

例えば、何かをメモしたスケジュール帳を失くすこと、人の話を記憶に留めておけないこと、うっかりコップをこぼしてしまうこと、人が話している最中に口を開いてしまうこと、ADHDの主な症状のすべては自分のせいなのでしょうか?

 

いいえ、違います。

 

全部、発達障害のせいなのです。

 

脳内の伝達物質が不足していたり、前頭葉が弱かったり、とにかく脳が健常者に比べて、ボロボロなのです。

そもそも、人間の行動は全て脳が司っているといっても過言ではなく、その脳が健常者に比べて発達していないのだから、どんなに努力しても、できないことがあって当然だと私は個人的に思っています。

疑問に思う方は、一度、脳の役割について、調べてみてください。

 

だから、どんなに努力しても、スケジュール帳を失くしてしまう、人の話を覚えていられない、コップをこぼしてしまう、話しを遮ってしまう、治そうとしても治せないのは当たり前のことです。

しかし、理解が得られないために、周りから「怠け者」「甘えてる」と評価され、周囲と自分を比較してできない自分をとにかく下げてしまい、「怠け者」だと思い込み、「甘えてる」から頑張ろうとして、そして二次障害を患ってしまう人がたくさんいます。

 

私も長い間、二次障害に苦しみました。「怠け者」の自分が嫌いでたまらない、どこか「甘えている」自分が嫌いでたまらない、そんな自分はいらないから死にたい、とずっと考えていました。

 

でも、脳の役割を認識したうえで、発達障害がなんたるかを理解してしまえば、あれもこれも「発達障害のせい」だったのです。

 

果たして、言い訳でしょうか?

 

脳が発達していないことによる行動や言動を、本人の責任にしていいのでしょうか。

いいえ、違います。

本来ならば、本人の責任してはいけないのです。

 

しかし、残念なことに社会はそう考えてくれません。

発達障害の人が、脳の未発達からできないアレコレを努力が足りないだけと見なします。そして、「怠け者」「甘え者」「出来損ない」とレッテルを貼ります。

社会は障害者に歩み寄ることもなく、むしろ障害者が健常者に合わせてこいと、無言の主張をしているように思えます。

 

できないことはできないんです。

 

健常者の方も、できないことはできません。

 

発達障害は、できないことが人より多いのです。

 

例えば、私は受験生ですが、健常者ならば受験勉強のことだけを考えて悩みますが、私は受験勉強だけではなく発達障害を原因とする怠け癖や体力不足、集中力のなさと悩まなければなりません。

 

定型発達よりも、悩むことが多いのです。

 

それが、きっと生きづらさに繋がっているのではないでしょうか。

 

 

記事本文に反論したいことがあります。

 

定型発達も生きづらいと、最後の方に書かれていますが、そもそも誰だって生きづらい世の中です。

 

本来、生きづらさの比較なんて、してはいけません。

 

「誰だって辛い、誰だって大変。自分だけとは思うな」

 

とは、人が「辛い」と吐いた時に言われる定番の台詞ですね。

 

世界は、自分を通してしか見ることができません。

自分だけだと思い込むのは、当たり前のことではありませんか。

他人になることはなく、自分中心で生きているのです。

 

全く人の気持ちに寄り添っている言葉ではありません。

 

人が「辛い」と吐いた時は、ひたすら「辛かったね」「頑張ったね」「大変だったね」と優しく寄り添って言えばいいんです。

 

人の生きづらさの告白に、他人を持ち出すなんてことはしてはいけません。

 

残念ながら、上記の記事は定型発達よりの考えだなと感想を最終的に抱きました。

 

私は、なるべく社会に受け入れてもらえるよう「ふつう」になる努力や改善はするつもりですし、受験勉強は自分を少しでも生きやすくするための手段の一つです。

でも、できないことはしませんし、諦めていくつもりでもあります。

 

そもそも、社会が受け入れる努力をしていないどころか、私が生まれる一年前までは優生保護法のもと、障害者を積極的に排除してきたのです。

発達障害も最近になって、やっと認知されてきたとはいえ、完全に浸透しているかといえば、ノーです。私も自分は発達障害だと知るまでは、全く知りませんでした。

だから、発達障害を配慮しろ、というのは当然の要求ではありませんか。叫ばなければ、また排除されるのではないかという、無意識的な防衛意識ではないのでしょうか。

 

話はだいぶ逸れてしまいましたので、戻ります。

 

発達障害の言い訳にしたくないと、頑張ったところで、結局何もできない自分に対して絶望するだけです。

 

できないことをして、結局できなかったことを「ADHDだから」と開き直るのはよくありません。

たぶん、記事の本文の中で伝えたいことは、そういう言い訳ではないのかと思いました。

 

つまり、「できないこと」「できること」をはっきりさせればいいんです。

 

定型発達は「できないこと」を「できる」にします。

 

ですが、発達障害は「できないこと」は「できない」のです。

 

これが、定型発達と発達障害の差です。

 

発達障害を言い訳にして、生きてもいいじゃないですか。

 

私は、もうできない自分を責めて、自殺願望を抱き、二次障害で苦しみたくないのです。

 

できないのは私のせいじゃない、発達障害のせい。

だから、できないことはしない。

 

 

 

それでも、言い訳にすることはいけないことなんでしょうか…?